2011年10月2日

末森城跡(宝達志水町)

Filed under: 城・城址,石川 — Hideshirou @ 11:00 AM


押水バイパス(羽咋方向より)


押水バイパス (金沢方向より)


駐車場から登城案内


案内板


駐車場案内 『ここにもクマ注意!』


押水バイパス陸橋前にも駐車場があります。


末森山古戦場の碑

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【末森城跡】 (羽咋郡宝達志水町)
宝達方向から159号線押水バイパスを走ると大きな看板が見えてきます。
駐車場から車で上がる場合は道が狭いので対向車には注意が必要です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【案内板の内容】
末森城攻防のようす

押水の地は、能登の中でも最大の荘園でした。
この「大泉庄」は、宝達山系と海岸線か最もせばまつた地形にあり、
古くから加賀・能登・越中へ通じる交通の要となつていました。
天正12年(1584)、そのころ越中の富山城にいた佐々成政は、加
賀と能登を分断し、前田氏の戦力を弱めるのに最も適した未森城を手
にしようとしたのです。
成政は、同年9月8日の夜、1万5千の大軍を率いて越中の木舟城
を出発し、砺波の宮島から沢川(そうごう)を経て、今の津疇地内の
牛首に入りました。
9月9日には、先陣が吾妻野(東間)の天神山に達し、午後2時時に
本隊が未森城まであと4.5kmの坪井山に本陣をかまえました。
翌10日の朝、佐々軍は戦いを開始。この情報をいちはやく金沢城
に連絡したのが午後2時頃でした。
この報せを知った利家が、金沢城を出発したのが午後4時、そして
当日の午後9時には津幡城へ入り、後に続く利長を待って、津幡城を
午後11時に出先し、11日午前4時に未森城から1.5km西方の鯨骨
山に到着しました。そして数時間にわたる戦いの後、利家軍は未森城
のからめ手(城の裏門)より本丸へ攻め人りました。
形成不利とみた佐々軍は、隊を整えて退却しました。 しかし、前田
軍の援軍といっても数千人、城内にいた兵もわずか5百人たらずでし
た。一方の佐々軍の兵は1万5千の大軍でしたが、奥村永福田武勇と
前田軍の奇襲lこよって、佐々軍は乱れてしまいました。
数のうえでは優位であった佐々軍の後退は、遠く離れた敵地での補
給や、退却する道の確保が困難との判断から、余裕のあるうちに後退
したのでしょう。
佐々軍は、河北郡の横山を通り、津幡町の吉倉山から島越城を経て
倶利伽羅城へと弓lき上げました。
前田利家の戦勝によって、織田信雄(信長の二男で、秀吉の怒りに
ふれて追放)や徳川家康に対抗していた豊臣秀吉にとっては有利なも
のとなりました。
この戦い以降、前田利家は勢力を越中にまでのばしますが、未森合
戦こそ前田方が加賀・能童・越中の三国を支配するきっかけとなった
のです。

※裏面に点字と音声による案内板があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Yahoo Map 『末森城駐車場』 『碑の場所

コメントはまだありません »

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード。 | TrackBack URI

コメントする

XHTML ( You can use these tags): <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt=""> .