2011年10月15日

保護中: 椿山荘

Filed under: 未分類 — Hideshirou @ 12:00 PM

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2011年10月14日

東京タワーとスカイツリー

Filed under: 観光・旅行 — Hideshirou @ 2:00 PM

東京タワー、 なんとなく上ってみたくなる!

展望台からの下覗き…ゾ~ッ!

特別展望台からのスカイツリー

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ウン十年前、階段を駆け登ったことがあったなぁ!
あのパワーは今どこに…?

東京タワー オフシャルサイト

隅田川下り(浅草水上バス~日の出桟橋)

Filed under: 観光・旅行 — Hideshirou @ 12:00 PM

浅草水上バス向かいのアサヒビール吾妻橋本社

何橋でしょうか?


ヒミコ
今度はこれに乗りたいなぁ!

橋の名前はわかりません??

船内

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TOKYO CRUISE(東京都観光汽船)
YahooMaps(浅草乗船場)   ・日の出桟橋

浅草寺とスカイツリー

Filed under: 観光・旅行 — Hideshirou @ 11:00 AM

浅草寺 雷門前

浅草寺 仲見世

浅草寺から見えるスカイツリー

スカイツリー(押上駅~業平駅)

Filed under: 観光・旅行 — Hideshirou @ 10:00 AM


押上駅近くから

今度来るときはスカイツリー駅になっているから
是非記念にと駅員さんに勧められて写しました。

 

2011年10月9日

寺中台場(大野湊神社脇の緑地公園)

Filed under: 金石・大野方面 — Hideshirou @ 3:00 PM


大野湊神社脇の緑地公園の台場跡


大砲方鹿田文平の原図を元に一部復元したもの


1825年:外国船打払令(異国船無二念払令)以降、
外国船警戒強化のために
1866年に寺中浜・畝田村に御台場(砲台)が設けられた。

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『幕末の歴史的流れ】
1825年(文政8年):外国船打払令(異国船無二念払令)
1843年:10月:イギリス船サマラン号、八重山に上陸し測量を強行。
1844年:フランス船アルクメール号、那覇に入港し通商を求める。
1846年:米国軍艦「コロンブス号」「ヴィンセンス号」浦賀に来航、司令官ビッドル通商を求める。
1852年:11月:銭屋五兵衛牢死(80歳)。
1853年:6月:ペリー来航。アメリカ・東インド艦隊指令ペリー、軍艦4隻を率いて浦賀に来航。国書受取を要求。ロシア使節・プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に入港。国書受取要求。
・銭屋要蔵らが処刑される。
1854年:1月16日:ペリー、軍艦七隻を率いて浦賀に再来。
3月3日:日米和親条約に調印。
8月23日:幕府、日英和親条約に調印。
11月27日:幕府、日露和親条約に調印
1860年:・桜田門外の変。
1882年:8/21(9/14)武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)。
1863年:5/10(6/25):馬関戦争(下関戦争)。長州藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を実施した。
7/2(8/15):薩英戦争。鹿児島湾にて、生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた。
1865年:普正寺浜で小筒や大砲の試射が行われた。
1866年(慶応 2):寺中台場、宮腰台場、大野台場、普正寺台場も造られる。(薩長同盟成立)
犀川・浅野川が氾濫。要川を掘った。
1868年:1月:『戊辰戦争』鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始。

英国アームストロング砲:射程距離4km、榴弾有り。(欠陥が多い)
和大砲:飛距離1km
千石船:全長約20m、重量約100t。
外輪船:全長30~50m、排水量700~1,000t。
フリゲート艦:全長78.3メートル、排水量2450トン、乗組員300名。

私感ですが
もし、上陸したら宮腰は戦いの場所で、見捨てられていますねぇ(–!)
同年射程内に犀川氾濫を口実として惣構と思われる要川が造られています。
犀川、要川、木曳川の合流地点辺りを射程としているようですが、水深4~6m必要な黒船が入れるとはおもいません。
子供の時に犀川河口で泳いだとき、水深はあっても2m、至る所に浅瀬があったように記憶しています。
また、加賀藩がこれに巻き込まれるのか、巻き込まれても太刀打ちできるのか甚だ疑問ですが。

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寺中台場(大野湊神社脇の緑地公園) 『Yahoo Map

大野お台場公園と砲台

Filed under: 金石・大野方面 — Hideshirou @ 12:00 PM


大野お台場公園
野外ステージのようにも見えるが
何か催されることがあるのかな?!

「気象庁津波観測施設」
潮位の変化を観測する施設で、
津波に関する重要な情報として
防災対応に生かされているそうです。


大野お台場公園案内板


大野お台場跡
外国船打払令(異国船無二念払令)以降、
外国船警戒強化のため御台場(砲台)が設けられた。
公園内で、少しわかりにくところにあります。

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お台場公園駐車場 『Yahoo Map

2011年10月2日

宝達山と一等三角点

Filed under: 未分類 — Hideshirou @ 3:00 PM


宝達山への案内板
Yahoo Map


宝達山 駐車場からレーダ基地と山頂。
Google Map
駐車場には誰もいなかった。
頂上を眺めていると、自転車で登ってくる人と出会った。(凄!)


テキストは・・・入っていない?!

 
河北潟と内灘でしょうか?


「山の龍宮城」
乙姫、甲姫、丙姫・・・誰もいなかった。
荒れ放題が秋の寂しさを感じる(侘!)


「五力峯林道」 ここから山頂へ登る


山頂付近のレーダー基地
ここにはNTT、NHK、警察等の無線中継基地があります。

 
手速比咩神社(てはやひめじんじゃ)


一等三角点 宝達山(国土地理院)
北緯:36度46分44秒002
東経:136度48分57秒641
標高:637.35m
で、6月3日は「測量の日」だそうです。


頂上より富山側を望む
Google Map

   

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駐車場、山頂登り口 『Yahoo Map

伝説の森公園 モーゼパーク

Filed under: 未分類 — Hideshirou @ 2:00 PM


モーゼパーク入口看板 地図A


入口案内看板
地図B


左:駐車場、真っ直ぐ:『モーゼの墓(三ッ子塚古墳群)』


モーゼ公園


公園案内板 『←安息の広場』道標
ははは、く、熊が・・・栗拾いに?!。。。(^^!)


『三ッ子塚古墳群→』 『ミステリーヤード→』


『ロマンの小路↑』道標
マロンの小路かと思うほど栗が落ちていました。
小粒でしたが!


モーゼの墓?の碑
残念ながら傷みが酷くほとんど読めなかった。


モーゼの墓
(三ッ子塚古墳群)

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秋です。
マロンの小路・・・あっ、違った。
『ロマンの小路』で拾った栗。

 

 

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【伝説の森公園 モーゼパーク】
宝達志水町
ミステリアスな公園です。
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Google Map 『伝説の森公園 モーゼパーク』 『Google Map

末森城跡(宝達志水町)

Filed under: 城・城址,石川 — Hideshirou @ 11:00 AM


押水バイパス(羽咋方向より)


押水バイパス (金沢方向より)


駐車場から登城案内


案内板


駐車場案内 『ここにもクマ注意!』


押水バイパス陸橋前にも駐車場があります。


末森山古戦場の碑

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【末森城跡】 (羽咋郡宝達志水町)
宝達方向から159号線押水バイパスを走ると大きな看板が見えてきます。
駐車場から車で上がる場合は道が狭いので対向車には注意が必要です。

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【案内板の内容】
末森城攻防のようす

押水の地は、能登の中でも最大の荘園でした。
この「大泉庄」は、宝達山系と海岸線か最もせばまつた地形にあり、
古くから加賀・能登・越中へ通じる交通の要となつていました。
天正12年(1584)、そのころ越中の富山城にいた佐々成政は、加
賀と能登を分断し、前田氏の戦力を弱めるのに最も適した未森城を手
にしようとしたのです。
成政は、同年9月8日の夜、1万5千の大軍を率いて越中の木舟城
を出発し、砺波の宮島から沢川(そうごう)を経て、今の津疇地内の
牛首に入りました。
9月9日には、先陣が吾妻野(東間)の天神山に達し、午後2時時に
本隊が未森城まであと4.5kmの坪井山に本陣をかまえました。
翌10日の朝、佐々軍は戦いを開始。この情報をいちはやく金沢城
に連絡したのが午後2時頃でした。
この報せを知った利家が、金沢城を出発したのが午後4時、そして
当日の午後9時には津幡城へ入り、後に続く利長を待って、津幡城を
午後11時に出先し、11日午前4時に未森城から1.5km西方の鯨骨
山に到着しました。そして数時間にわたる戦いの後、利家軍は未森城
のからめ手(城の裏門)より本丸へ攻め人りました。
形成不利とみた佐々軍は、隊を整えて退却しました。 しかし、前田
軍の援軍といっても数千人、城内にいた兵もわずか5百人たらずでし
た。一方の佐々軍の兵は1万5千の大軍でしたが、奥村永福田武勇と
前田軍の奇襲lこよって、佐々軍は乱れてしまいました。
数のうえでは優位であった佐々軍の後退は、遠く離れた敵地での補
給や、退却する道の確保が困難との判断から、余裕のあるうちに後退
したのでしょう。
佐々軍は、河北郡の横山を通り、津幡町の吉倉山から島越城を経て
倶利伽羅城へと弓lき上げました。
前田利家の戦勝によって、織田信雄(信長の二男で、秀吉の怒りに
ふれて追放)や徳川家康に対抗していた豊臣秀吉にとっては有利なも
のとなりました。
この戦い以降、前田利家は勢力を越中にまでのばしますが、未森合
戦こそ前田方が加賀・能童・越中の三国を支配するきっかけとなった
のです。

※裏面に点字と音声による案内板があります。
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Yahoo Map 『末森城駐車場』 『碑の場所